驚くべき遺跡・キウス4遺跡
キウス周提墓群の西南方で、北海道横断自動車道の建設に伴って平成7〜十年(1995〜98)にかけ発掘調査が実施されてきたが、周提墓が営まれたこの遺跡の範囲が長径1,000m、短径400m程の規模に及ぶことが解ってきた。
それは、北に墓が、又集落を囲む土手(盛土)があり、土手に囲まれた地域(広場)に住居や貯蔵穴が配された非常に大規模なものである。
後代の弥生時代の村にも匹敵する規模である。
北と南に一列ずつ東西方向で帯状に造られた盛土が並列している。盛土は、幅10〜40m、長さ180〜190mに及ぶ。厚さは最大1m、平均層厚約30cm程ある。
盛土は、土器や石器、獣骨、魚骨などの遺物を含んでいる。住居、建物などを構築した際の排土が地形の低い部分に動かされたり、焼土などが廃棄された結果と思われている。
盛土にはシカ、イノシシ、ヒグマなどの哺乳類のほか、サケ科、コイ科など魚類の骨が含まれている。骨がこまかく、しかも多量である。
又、完形の注口土器が多く出ること、朱塗りの弓、ヒスイの玉、サメの歯、石棒の破片などの特殊なものが出土することから、単なるゴミ捨て場でなく盛土で物送りなどの儀礼的行為が行われたと考えるむきもある。
広場の盛土が切れる辺りから東北方、キウス周提墓群の方に向かって、人が踏み固め窪ませた道跡が80〜90m程延びている。この道の周辺に19基にのぼる周提墓が発見されたのである。
墓は一般に細長く深さも約2mと深く、伸展葬が多い。時代が下がると屈葬が出てくる。墓の穴の長径の方向は北西から西向きにほぼそろっている。頭は西側に置き、顔を北向きに埋葬している。
細長く、新しい墓になるに従って丸く浅くなってくる。10号周提墓では二体と四体を葬った合葬墓が確認されている。
周提墓内の墓には墓標(標柱)が立てられた。道は死者を葬送するためのものか。
盛土に囲まれた広場は100×180m程の広さがある。調査は部分的にしか行われていないが、住居、柱穴、そして盛土より古い可能性もあるが貯蔵穴などが発見されている。西側、低地帯に近いところから住居跡が5軒見つかっている。
住居と周提墓の間には長径20〜30cmの太さの柱穴が30ヶ所確認されている。この時代では半地下式の建物が一般的であるが、高床式の建物であった可能性がある。住居と周提墓を眺望し、更に西側の湿地まで見下ろす高い建造物があった可能性がある。
驚かされるのは、盛土、周提墓、道、柱穴群などからなる集落の大きさである。そして、盛土中から発見された40万点とも言われる遺物の多さである。しかも、その大部分は堂林式土器で、比較的短期間に形成されたものと考えられる。
今後の整理の進展で、遺物数は増えそうである。
シカの追い込み猟
キウス4遺跡から東に1`程、標高20m程高くなったキウス5遺跡のC地区で、下端が尖っている杭が打ち込まれたと考えられる小土擴が、310箇所発見されている。
子細に観察してみると杭は50cm〜1m程おきにつくられ列状になっており、14列が確認されている。
作られた時期は、4,000年ほど前の縄文中期末葉と考えられる。
調査した北海道埋蔵文化財センターの西田氏らは、これらの杭の配列を、動物の通路にシカを追い込んで、捕獲するために作ったものであろうとする。
シカは秋から冬にかけて群れをなす。恐らくは杭と杭の間には網や木などを巡らし、シカを追い込んだものであろう。
これらの穴の配列はキウス川の右岸の段丘で発見されており、一方はキウス川が障害になっている。それを避けるかたちで移動する際にかかるように仕掛けた物であろうか。
落とし穴であるTピットで仕留める方法より、勢子(獲物を追い立てる人)やイヌを使いシカを追い込む方が効率よく安定的に捕獲することが可能である。
生業
縄文人が捕らえたシカは成獣が多いが、シカの歯の成長線の分析などからシカ猟は秋から冬にかけて行われたと考えられている。
秋にはサケが群れをなして遡上し、各種ドングリの実も熟れる。人々は、採集労働、狩りや漁労を生業としていた。
キウス4遺跡では、貯蔵用の土擴が、2×2mと規模の大きいものが発見されている。残念ながら貯蔵されたものは残っていないが、穴の中での短期的な生貯蔵を行うなど、食料を蓄えることはあったようだ。
盛土中から発見されるサケの骨は、脱落歯の出土数が極度に少ないため、他の場所において頭部と胴部を切り離す処理の行われた可能性が指摘されている。(北海道埋蔵文化財S報告内)
鹿児島県上野原遺跡(AA35・dairyA,最古のマイホーム)では連穴土擴と呼ばれる獣や魚を燻製にする施設が発見されている。
縄文時代には他に乾燥、発酵などによる保存加工の習わしや技術があったと考えられている。こうした食料の加工技術によって特定の食物の枯らす季節であっても、年間の食料事情を安定させ、その場所に定住し続けることが出来るようになった。
ヒエ、アワなどの検出から、縄文時代にも食用植物の栽培も多少始まっていたらしいと考える研究が多くなっている。
美沢川流域の遺跡から、内陸性のヒグマ、エゾシカなどの獣や各河川を遡るサケ類、水鳥などの骨が残っている。ヤスや銛の他に石錘が発見されており、漁網や、仕掛けておけば自動的に魚の捕れる梁などがあったと考えられる。
北海道に棲息していないイノシシの遺存骨が時折発掘されている。イノシシはもともと北海道にはおらず、生きたままか、骨付きの肉としては不明だが北海道に持ち込まれている。ドングリ、クルミ、ウバユリなども重要なタンパク源だった。
縄文時代の人々は狩猟によって食料の多くを得た。特にシカは肉の量も多く、それらの皮や骨、角などは生活用具として幅広く活用された。
住居の炉の跡からは火を受け、細かく割れたシカの骨が焼土に混じって出土することが多い。
縄文時代の遺跡を調査すると、沢、或いは段丘縁の「けもの道」に沿って、細長く深い穴が発見されることが多い。中には底に杭を立てたものもある。
胆振、日高地方は冬でも積雪が少なく、シカの越冬地として知られている。シカは草食で、群れをなし、100から200頭に達する。初冬、エサである林床植物を求めて太平洋岸に移動した。シカの移動路に沿って掘られたこうした穴は、習性を熟知した縄文人が、ダメージを受けて足が届かず身動きの出来なくなったシカを容易に捕獲するために掘られた「落とし穴」と考える人が多くなっている。
貝塚に脊椎骨など肉の付かない部分の骨が少ないことから、その場でナイフなどで小さく解体され集落に運ばれたのであろう。
文化の接点
勇払川、美々川、美沢川から千歳川、石狩川と結ぶ道は、18世紀後半「ユフツ越え」、 「シコツ越え」と呼ばれ、太平洋側と日本海側とを結ぶ交通の要路として知られている。
縄文後期中葉には北は北海道の礼文島から、南は九州に至る広い範囲で共通点の多い土器が作られた。
関東地方で加曽利B式と呼ばれる土器の時期で、環状列石が東日本を席巻する。そして、この後継者たちが千歳周辺に周提墓を作り始めるのである。
又、7〜8世紀には本州で作られたと思われる土師器とそれを生み出した文化が、日本海或いは太平洋を経てこの地方にもたらされた。
北海道の北と南の接点にある千歳は、旧石器から近世まで、南は本州、北は樺太、千島から、人々は海や川を交通として行き交い、時代による程度の差こそあれ、新しい情報とものをもたらし、多くの営みの跡を台地に刻んだ。
経済的手だての変革と、新しい精神的結合が生まれていった。美沢川流域の遺跡群やキウス周提墓群、ウサクマイ遺跡群など北海道を代表する遺跡の存在は、その時代の人々の生き様の投影したものであったといえるのが、札幌低地帯、勇払原野の接点という地理的要因と無縁ではない。
(「古代に遊ぶ」さっぽろ文庫 札幌市教育委員会 千歳の遺跡 大谷敏三)