低湿部の作業場では、
まぎれもなく木製品・繊維製品が主役であったのも事実である。
小樽市街の西方約10km、忍路半島の付け根に位置し、蘭島川支流で西流する小河川種吉沢の左岸台地(標高18m)と氾濫原にその広がりを持っている、縄文時代後期中葉の遺跡である。
台地部の続き南側緩斜面には、国指定史跡「忍路環状列石」があり、このストーンサークルとは一連の遺跡である。
低湿部は、この小河川の側方浸食で台地端が削られた湾入部に存在、豊富な水分を有する黒色腐植泥と砂の互層が1〜1,5mの厚さで堆積し、約一千uに20万点を越える遺物がパックされたような状態で埋蔵されていた。
土器・石器類は勿論木製品・繊維製品・漆工品や大型種子・自然木などの大量の有機質遺物が発見され、フローテーションや土壌水洗により微細な動植物遺存体なども検出されている。
出土遺物で、木製品では浮子・やす・たも網枠などの漁労具、楔(くさび=)堅い材木または金属で、一端を厚く他端に至るに従って薄く作った刃形のもの)・石斧柄・発火具・台板や割材・板材・丸木材の各加工品などの諸道具類、祭祀具・弦楽器・装飾品、弓、板類、柱・桁梁材・杭などの加工原材・途上材、炭化材なども多い。
巨木建材は台地上にあった巨木柱穴と合致するもので、その後の小樽市教育委員会のストーンサークル史跡整備調査においても周辺から巨木穴が検出され、「忍路環状列石」の周りを巨木柱が取り巻いていた可能性もある。
漆工品には、木胎漆器や櫛、朱漆塗紐・朱漆染?糸玉、装飾品がみられる。
樹皮製品では、漆液を溜めた容器や赤彩した断片があるほか、焚き付けや燈火用として、或いは繊維材料として用いられたものがある。
繊維製品では、敷物状・すだれ状に編組されたものや縄類とその製品、かご、筌(=魚を捕る具。細い割竹を編んで、筒または底無し徳利の形に造り、入った魚が出られないように口に漏斗(ろうと)状などのかえしをつけたもの。うけ。うえやな。もじ。ど。)・環状器台のほか、彩色された編み布やたも枠に付着した網残片、漆工品で上げた紐・糸などがある。
地形や層序、遺物分布からみると、低湿地部は川の氾濫と移動の繰り返しによって泥・砂が堆積し、氾濫ごとに機面もの安定した面が形成された。
氾濫期に生活面とし、木製品を始めるとする多くの遺物が残されたのである。この生活面のうち、特に遺物や木組遺構・建材などが集中するスペースが大凡3段階で7ヶ所確認され、水を必要とする作業を行う「作業場」としてとらえられた。
作業場は食物を中心とする動植物加工や漆工、繊維製品等の諸道具や墓副葬品作り場と考えられる。
巨木材や建材・板などの木製品・繊維製品を作る技術の高さがあれば、簡易的な水利工事を行う技術レベルには十分達していたものと思われる。
1号作業場は柱穴と建材の出土、10ヶ所の焼土と木組、木組の周りに集中する編布・スダレ状繊維製品・クルミ・樹皮、煤状炭化物の付着した大型深鉢土器やヨコヅチ・台石などの道具類の出土から、作業台である木組を中心に小屋や炉を持ち合わせた植物質食品加工場と推定できる。
4号作業場は、建材・舟形片口容器・台板などの木製品、各種の土器、縄・かご・敷物状などの繊維製品、クリ・クルミの集中から、やはり植物質食品加工の場と推定されるとともに、黒漆塗櫛2点・赤色顔料や液垂れ痕の残る浅鉢土器の出土は、漆工作業の展開と見て取れる。
6号作業場は高まり部分に建材やすだれ状繊維製品が出土し、ここに小屋が建っていたことが解る。
木組みの周辺には繊維製品・樹皮が多く、深鉢土器や脚付皿・台板・大型刳物などの木製品、動植物質混合パン状炭化物、獣骨片の集中など、総合的な植物加工の場を示す遺構・遺物が出土している。
このように木製品・繊維製品・漆工品は単独で出土するものではなく、単独で使われるのでもないことが解った。
木製品・繊維製品・漆工品と他の道具(土器・石器・骨格器など)との組み合わせで、縄文・続縄文人の日常生活の営みや精神文化が成立していたもので、「木」があってこそ縄文〜続縄文文化といっても過言ではないだろう。
少なくとも低湿部の作業場では、まぎれもなく木製品・繊維製品が主役であったのも事実である。
(北海道埋蔵文化財センター 三浦正人)