石狩紅葉山49号遺跡の木製品・低湿地遺跡

舟形容器は縄文時代最大級・柵は初めて見る木製品の過去例がない

  

   水を十分に含んだ粘土や砂、泥炭などで外気と遮断された場合、数千年或いは一万年以上の長い間、原型を留めることがある。

  石狩紅葉山49号遺跡の西橋で発見された、縄文時代中期末(約4,000年前)に流れていた川も上記の条件に当てはまり、多数の木製品がほぼ原型を保って出土した。

  驚いたことに木製品だけでなく、魚を捕る仕掛けである木杭列(エリ)も原型を保ったまま発見された。

  ここでは当時の河川が埋め立てられたものの標高2m前後の低い土地で、しかも川が近くを流れ続け、木製品などを含む地層が常に水に満たされていたためである。

  このような水つきで木製品をはじめとする有機質の遺物・遺構が残る遺跡を「低湿地遺跡」と呼ぶ。

   石狩紅葉山49号遺跡の縄文時代中期末からは、多数の杭と杭列そして容器をはじめとする多彩な木製品が出土した。

  道内では縄文時代の低湿地遺跡としては後期の小樽市忍路土場遺跡が有名であるが、年代的には500年ほど紅葉山の方が古い。又、注目されるのは、魚を捕るための杭列が10基も発見され、しかもその大半が構造や設置時期の推定から鮭用の定置漁具と見られることである。

  このことは縄文時代の内水面漁業の発達や食糧問題を考える上で大変画期的な発見である。

  杭や杭列とともに川の中から出た木製品は、舟形容器、タモ、松明、丸木舟の一部、櫂、銛、ヤス、魚叩き棒など漁に関連すると見られる道具、石斧の柄や尖り棒など木の加工に関連すると見られる道具、そして漆器を含む小型の容器類などの食器類が見られる。

  舟形容器は縄文時代最大級と言われるもので、全長110cm、幅35cm、高さ9cmの器。外面の両はしに刻みと穴のあけられた突起がつけられている。突起は正面から見ると熊の顔などを連想させ、動物を模した可能性もある。

  使われている木は、ハリギリ(センノキ)である。外面には石斧で削ったと見られるはつり痕が残っているが、内面は殆ど凹凸が無く砥石などで仕上げしたものと考えられる。

  器の使用目的は、解体した鮭を運ぶためとも考えられるが、初漁の儀式用の可能性もある。長さから見てのイメージ。

  タモは、ヒメシャブシの木を使い二股になった枝をたわめヤマブドウの皮で結んでタモ枠を作っている。

  全長183cm、タモ枠の部分は79cm×40cm。枠の大きさから見て鮭など大型の魚をすくうのにふさわしいものである。

  又、出土してすぐは気づかなかったが、網の部分もヤマブドウの皮で張られている。

  丁度、テニスラケットのような構造になっている。

  松明は、全長35,8cmある。このタイプの松明はアイヌ文化にも見られスネニと呼ばれている。スネニとはアイヌ語で、明かり・木の意味である。これは細木を半割状態にし、割れ目に白樺などの樹皮を挟め火を付け、明かりにするものである。

  出土したものはヤチダモの木で作られたもので割れ目の内部が焦げていることからスネニと同種の松明と考えられる。

  丸木舟の一部と櫂。

  丸木舟は残念ながら舳或いは艫(とも)の一部と見られる破片が出土しただけである。全体は不明であるが、木はヤチダモと推定され、外側に浮き彫りがついている特徴あるものである。櫂は全長160cm以上あったと思われ、ホウノキで作られている。

  内面に赤漆を塗られた浅鉢。

  漆器はこれを含めて2点である。石斧は4点で、柄には装飾的な加工があり儀礼用柄の可能性がある。

  次は柵と棒。

  柵は初めて見る木製品の過去例がない。又魚叩き棒は、鮭漁に伴う物では国内最古と見られる。

  いずれも本遺跡の性格を象徴する遺物で、縄文時代中期既にサケ・マス漁が盛んであり、それに伴う儀礼など文化的にも成熟していたことが推定される。

(石狩市教育委員会文化財 石橋孝夫「新北海道の古代 続縄文・オホーツク文化」)