人類の活動と白滝産黒曜石(木村 英明)
北海道最古の旧石器文化と白滝
世界史的にみると、人類と黒曜石の出会いは想像以上に古い。道具として黒曜石を利用した確かな例は、少なくともヨーロッパでいう前期旧石器時代のアシュール文化にまで遡る。
アシュール文化のハンド・アックス
フランスのサン・アシュール遺跡の名をとったアシュール文化のハンド・アックスは、アフリカでは約140万年前からつくられるようになったが、ヨーロッパでこのタイプの石器が広がるのは、約50万年前以降のことである。写真のアシュール文化のハンド・アックスは約70万年前のもので、タンザニアのオルドバイ峡谷で出土した。アシュール文化の石器の特徴は対称形であることだが、このハンド・アックスにもその特徴がみられる。
「先史時代」 「旧石器時代」 「細石器」 「剥片石器」 「輝石安山岩」 「サハリン」
日本列島では、これほどに古い旧石器文化は発見されておらず、人類と白滝産黒曜石との出会いは、可也後のことである。
これまでの研究によると、早くも初期の段階から、白滝産黒曜石が利用されていた。しかし、その一方で、本格的開発には至っていなかった。
人類による湧別川流域への進出は、それほど大規模なものではなかったらしく、遺跡数は少なく、ブロックの大きさも小さい。比較的まとまって出土した上白滝七遺跡でも、ブロック4〜10の剥片類を合わせて8600点ほどである。
かつては湧別川本流、或いはその付近でごく普通に拾うことのできたものである。人類が白滝の黒曜石と出会った確かな証拠であるが、森深くの露頭にまで進出することなく近場で入手したものである。
初期の黒曜石利用状況
北海道の旧石器文化の石器群に見られる黒曜石の利用は状況は、
円グラフの上半円には、遺跡から出土した遺物総数に対する石材別構成比。
下半円には、フィッション・トラック法、蛍光X線分析法などによって明らかにされた黒曜石試料数に対する原産地別構成比。
露頭の開発と流通の分業
旧石器時代中葉から後葉に至って、石刃や細石器の本格的な生産と結びつきつつ、黒曜石を求める集団が大きく動き始める。
グイマツ(今日ではサハリンや沿海州などに生育するカラマツ属)などの樹木が僅かながら生える周氷河性の環境下で、眩しく光る巨大な岩壁がますます良く見えたためか、或いはより良質で大きな石材を必要とする石器製作上の要請からか、赤石山山頂付近の露頭が本格的に開発され始める。
同じく、湧別川流域の白滝村付近に大規模な遺跡が集中する時期でもあり、白滝の黒曜石原産地の重要性が増したことは疑いない。さらには、これらの遺跡を介して全道各地、サハリンにまで白滝産の黒曜石が広がる。
石器製作址としての幌加沢遺跡遠間地点
幌加沢遺跡遠間地点では、わずか100uにも満たない発掘区から40万点近い大量の石器や剥片が発掘されている。しかもその殆どが石器製作の際に原石から剥がされた剥片、或いは石器の形を整えていく過程で剥がされた剥片・砕片類で、全体の97%に相当する。
又道具箱についてみると、現代の工具箱には必ず入っている日常的な道具とでもいえる彫器(彫刻刀)、掻器(皮なめし具)、石錘(ドリル)など若干の石器は認められるが、非常に少ない。一方で、細石刃とそれを作り出すための細石刃核など石刃核の存在が際立っている。
本遺跡を、主に細石刃、及び石刃を生産するための石器製作址とみなす理由である。幌加沢遺跡遠間地点の土層中には、跳ねて飛び散った溶岩が冷えてできるビー玉くらいの大きさの黒曜石、あるいはそれよりやや大きい黒曜石の塊が含まれることがある。
石器の材料に使えるような大きさの黒曜石は、全く含まれていない。大きな黒曜石は、石器を作るために他の場所からわざわざ運び込んできたものである。遺跡は、黒曜石の材質の良し悪しを見定め、或いは試し割りしながら石器を作り始めた様子を示している。
第一次加工と「中継地」
幌加沢遺跡遠間地点は、さらに大切な役割を担っていたと見られる。運び込んだ黒曜石を第一次加工し、できた半製品、或いは完成品を更に他の遺跡へと運び出す役割が想定されている。それは、旧石器時代の人々が、石材産地の近くに住み着き、必要な石器を作っていたというよりも、石材・石器を運び出すための「中継基地」を持っていたということである。
細石刃作りに関わるものとして、第一段階のスポール(剥片)が577点、第二段階のスポール・剥片が471点出土している。
最初の剥片剥離によって細石刃剥離に必要な平らな打面が用意されると、その後の剥片剥離は終了するはずであり、第二段階のスポールが少ないのはごく自然のことである。その比は5対4で、製作工程に対応している。そして、それらスポールの数の多さに比して、細石刃核の数が極端に少なく、47点である。
ちなみに、遠間栄治によって集められた膨大なコレクションによると、第一段階のスポールが585点、第二段階のスポールが492点、細石刃核75点、細石刃核ブランク165点で、これらの数量上の傾向が未発掘地域を含めた全体の姿を反映したものであることが理解される。
「中継地」から高台の「ムラ」へ
湧別川流域をよく利用したのは中葉・後葉の人々であるが、特に幌加沢遺跡遠間地点と同じ時代の遺跡(ブロック)が、高台のあちこちに見つかっている。服部台、服部台2、白滝第33地点、白滝第13地点、上白滝2、白滝第30地点、白滝第4地点、上支湧別3、そしてホロカ沢1などである。
山腹の遺跡と高台の遺跡の関係を読み解く良好な資料は、遺跡範囲確認調査の折、白滝第13地点(国指定での名称白滝遺跡)でも、3.213点の遺物と共に、札滑型細石刃核にかかわる典型的な資料が検出されている。
上白滝2遺跡において、「札滑型」細石刃核をもつブロックが見つかっている。樹木の抜根作業によって遺跡全体がかなりの損傷を受けていたにも関わらず、石器が集中する15ブロックが確認された。
標高400mのこれらの石器群は、赤石山の黒曜石産出地を中心とする径10`ほどの範囲内に分布する。それぞれの石器群が果たした役割についてなお十分に解明されていないが、8号沢川、幌加湧別川と湧別川との合流点付近に立地するこれらの石器群が、沢の上流にある幌加沢遺跡遠間地点や8号沢第一遺跡などと無関係に存在したとは考えがたい。
海外に運ばれた白滝産黒曜石
「札滑型」細石刃核を特徴とする石器群が、湧別川流域を越えてはるかサハリンにまで及んでいる。
サハリンから南部、東海岸のドリンスクから南へ凡そ4`、ソコル川との比高40mほどの段丘上にソコル遺跡がある。
北の黒曜石の道・白滝遺跡群(木村 英明著)