黒曜石の交易
黒曜石の原産地
日本列島における黒曜石の原産地は、現在70箇所ほど知られているが、その分布は均一ではない。九州地方では西に偏在して26箇所、中・四国地方では隠岐島だけで4箇所、中部地方では長野県の中部高地を中心に13箇所、関東地方では神津島を一箇所とみて4箇所、東北地方では12箇所、北海道では10箇所。
何れも流紋岩系の溶岩を噴出する火山地帯に原産地があり、其の殆どが黒色を呈し、時に茶色の斑を含有する火山性のガラスもある。硬度6と測定され、曲がりなりにも宝石に分類される。
(流紋岩 りゅうもんがん Rhyolite 明るい色の細粒の火山岩(→ 火成岩)。火山の溶岩としてよくみられる。化学組成は花崗岩と同じで、ほとんど長石と石英でできている。流紋岩の中の暗い色の鉱物としては、暗褐色の黒雲母(→ 雲母)がもっとも一般的である。ふつう輝石(→ 輝石)および角閃石をふくむ流紋岩もある。流紋岩には、溶岩としてながれたときの筋模様がはいっているものもあれば、見かけ上均質なものもある。石英や正長石、斜長石(→ 長石)の斑晶をふくむような斑岩状のものもよくみられる。斑岩の石基は一部あるいは全部がガラス質である。
非晶質、つまり完全にガラスで黒い色をしている流紋岩を黒曜石という。ピッチストーンは、松脂状の茶色をしたガラス質流紋岩のことである。ガラス質の流紋岩はガスが膨張してできた大小さまざまな穴をもつ軽石になることもある。軽石はこのような穴が岩石の大部分を占めるため、ひじょうに軽く、水にうくことがある。また研磨用につかわれることもある。
イタリア南部のリパリ島にみられる溶岩からひじょうによい試料がえられるため、リパライトという呼び名がつかわれることもある。ネバダイトという呼び名はネバダ州にみられる、無数の斑晶をふくみ石基が目だたない斑状流紋岩につかわれる。日本でも各地から産出している。)
黒曜石は、火山ガラスという名称が示すとおり、割るとガラスと同じように鋭い刃部が現れるため、それを利用して、縄文時代には主として石鏃や槍状石器、皮を剥ぐ為の石匙などが作られた。中でも石鏃は、黒曜石で製作すると手間も要らず、早くから狩猟社会における必需品となっていたと思われる。
東日本の黒曜石の産地
@ 栃木県塩原町高原山八方ヶ原の那須高原山
A 長野県諏訪郡下諏訪町星が台の霧ケ峰。 長野県小県郡和田村の男女倉。 長野県諏訪郡下諏訪町西餅屋の和田 峠。長野県南佐久郡八千穂村の麦草峠。長野県小県郡長門町の星糞峠
B 神奈川県足柄下郡箱根町の畑宿、笛塚、鍛冶屋。
C 伊豆半島で静岡県熱海市の上多賀。田方郡の柏峠西。
D 神津島では、東京都神津島の砂糠崎、恩馳島、沢尻湾。
中部高地や神津島産の黒曜石の品質が良質で、遠隔地にまで運ばれる流通ルートや組織が確立していたのではないかと考えられる。
西限に近い富山・石川県出土の黒曜石の原産地分布をみると、近くは能登半島比那産の黒曜石や富山県魚津産の黒曜石があるが、遠くは長野県産のもの、特に霧ケ峰産の黒曜石が圧倒的に多いことが判明している。
このように、北陸両県出土の黒曜石原産地が解明されてきたことは、縄文時代の交流・交易を考える上で可也重要なことであるが、縄文中期の石川県富来町福浦港へラソ遺跡から、長野県霧ケ峰産二例と、神津島産一例が検出されていることは注目される。
一方、東側の太平洋岸では、房総半島先端近くの千葉県千倉町瀬戸遺跡(縄文後期)から、霧ケ峰星ヶ塔産黒曜石一点が発掘されており、長野県中部高地産黒曜石が運ばれた東端ではないかと思われる。
南関東一帯で黒曜石が石器として利用されはじめるのは、後期石器時代、今から二万五千年も前からのことであるが、その頃は、箱根産黒曜石が多く利用され、長野県産や神津島産黒曜石の利用度は少なかった。その後、ウルム氷河期(最盛期が二万年前)を過ぎるころから、次第に長野県産黒曜石が増加し始め、箱根産黒曜石を凌ぐようになってくる。
神津島産黒曜石
縄文時代に入ると、草創期には長野県産と箱根産の黒曜石がほぼ同等に利用されているが、神津島産黒曜石の利用度はまだ少なかった。しかし、それ以降、神津島産黒曜石は、縄文時代全期間を通じて、南関東から東海地方東部にかけて運び出されていく。
神津島から本州島に向けて黒曜石が運ばれるようになったのは意外に古く、ウルム氷河期の頃、即ち、今から二万年以上も前のことである。当時は海水面が現在よりも低く、神津島や新島などが陸続きとなり、古伊豆島ともいうべき大きな島が形成されていた。この古伊豆島と伊豆半島との間には30`以上の海峡があるが、其の頃から、この海峡を乗り切る交通手段があったことになる。神奈川県相模原市橋本遺跡のローム層出土の黒曜石128点の分析では、その内28%が神津島産黒曜石であり、約二万二千七百年前という年代値得られている。
神津島産の黒曜石は、後期旧石器時代を通じて、南関東から静岡県の天竜川あたりにかけて、現在15箇所ほどの遺跡に運ばれていることが判明している。
神津島産黒曜石が本州島で増加していくのは、縄文前期後半からである。その後、縄文中期にはピークに達し、南関東一帯から静岡県浜名湖周辺にかけて、神津島産黒曜石を出土する遺跡が途切れることなく広がっている。静岡県東部と伊豆半島、関東地方南部においては、分析した黒曜石の実に80%以上を、神津島産黒曜石が占めるようになり、更に遠く北関東にまで運ばれていくようになる。
縄文後・晩期になると、縄文社会そのものが衰退期に入り、遺跡数が減少するが、それに伴って、神津島産黒曜石を保有する遺跡数も激減する。分析した17遺跡のうち神津島産黒曜石を保有する遺跡は7遺跡になってしまう。