中野B遺跡―3
遺跡は函館市街地の東方約8km、函館空港現滑走路の東側に位置する。松倉川と汐泊川に挟まれ海岸段丘が発達し、幾本もの小小河や沢が北東から南西方向に段丘を開析して津軽海峡に注いでいる。
その一つである銭亀宮の川の河口から700〜800m上流左岸、段丘縁辺の緩斜面上に中野B遺跡があり、銭亀宮の川の対岸には中野A遺跡が、東に500mほど離れたムジナ川沿いに石倉貝塚が存在する。
確認された遺構は上記表通り。
中野B遺跡は主体となる出土物から見て、縄文時代早期中葉の住吉式からムシリT式土器(函館市史参照)の段階(約7,000〜7,500年前)まで居住が繰り返され、竪穴が600軒以上という集落跡が形成されたものであると考えられる。
G区のうち、南西部では昨年度と同様、重複する竪穴住居跡や小型のフラスコ状ピットなど多くの遺構や遺物が検出されている。
その東側、銭亀宮の川から約80mほど離れた調査区では、住吉町式期と見られる長軸が7〜8mほどの大型で深い竪穴住居跡が切り合い関係をほぼ持たずに数件確認された。
遺物出土の頻度が高いのもこの地区までで、これより以東は激減するなど、集落構成を考える上で注目される。
北西側の調査区では、平成6年度の調査で確認された大型のフラスコ状ピット群に連続するように、規模的にやや小振りの20基で構成されるフラスコ状ピット群が確認された。
遺物と遺構
今年度(平成8年)の調査で検出された遺構は、竪穴住居跡81軒、土坑80基、Tピット45基、焼土1ヶ所である。
竪穴住居跡では、大型のものが注目される。竪穴の長軸方向がほぼ南北にそろい、南北の方向に2列ほど並んで配置されている。ただし、竪穴同士が接近しているのもあり、全てが同時に建てられていたとは考えられない。
これら平面形は、隅丸方形・隅丸長方形が基本で、台形状のものもある。竪穴中央部にほぼ方形の掘り込み炉を持ち、それを巡る形で主体穴が配置されている。
主体穴は、深さ40cmを越える規格性富んだものである。
H―565では竪穴長軸方向に平行して、3本の柱穴が近接して並んでいる。
H―566では切り合い関係を持つ柱穴も見られた。同一箇所に同規模・複数の柱穴がある場合には、竪穴の拡張などの建て替えを考慮する必要がある。
これら大型住居跡の窪みには黒色腐植土(V層)が厚く堆積している。建物はV層からは希で、竪穴覆土から出土したものが殆どである。
これに対し、南西側の竪穴住居跡が重複する地区では、耕作深度の違いを考慮するにしても、頁岩フレイクの集中が見られたH―562のように確認面から多くの遺物が出土しており、様相を異にしている。
竪穴の堀上げ土と考えられ、その下部の黒色腐植土(Vb層)からは遺物が殆ど出土していないことから、竪穴の堀上げ土と考えられ、その下部の黒色腐植土からは遺物が殆ど出土していないことから、竪穴の掘り込み面がVb層中にあることが再確認された。
フラスコ状ピットはG区北西側の標高47〜48mの範囲に、20基纏まって検出された。遺物出土が希薄な地区であり、ピットに伴う遺物は殆ど無い。ピットの深さにはバラツキがあるが、抗底を銭亀火砕流層中に作られていることが共通する。
この地域はインボリューションが発達しており、銭亀火砕流堆積物層中の波打つ地質状況が今年度の旧石器確認調査で確認された。
出土遺物は昨年度(7年)と同じ様相である。土器は住吉町式が主体で、わずかに物見台式・根崎式・ムシリ式土器がみられた。
石器では礫石器が多く、石錘の点数が群を抜いている。