北海道 道央

環状列石墓の社会・神居古潭ストーンサークル

  環状列石墓の社会

  はじめに

  縄文時代の遺跡からは、各種の配石遺構が検出される。それは、石組炉や敷石住居など様々な規模・構造の遺構の総称である。

  このうち、墓抗に配石を持つものは配石墓と呼ばれる。配石墓には、石組により石棺上の構造をもつもの、墓抗上に円・環状に礫を配するものなどがあり、後者について一般にストーンサークル或いは環状列石墓と呼ばれている。

  北海道においては、縄文時代後期中葉に環状列石が盛行し、現在までに10遺跡が確認されておる。

  今回の神居古潭ストーンサークルの調査結果を見ても、検討の余地があると考えられ、いずれにしても、今後の環状列石墓の研究に、遺構の形態分類といった詳細な作業が必要であり、そのためには各遺跡の測量図面の整備が何よりも求められているのである。

 環状列石墓の特質

  環状列石墓とは、一般に個別墓抗上の配石が円・環状をなすもので、その個別墓抗自体更にその集合を指して呼ばれる。

  こうした環状列石墓は、道内では縄文時代後期中葉に道南から道央にかけて盛行したようだ。

  後期中葉以外の時期にも環状列石墓は存在するが、墓制として一時期を画するのはこの後期中葉の環状列石墓群であるといってよい。

  現在までに知られている北海道後期中葉の環状列石墓(以下「列石墓」)は次の10ヶ所である。

  1 小樽市忍路環状列石

  2 小樽市地鎮山巨石記念物

  3 余市町西崎山ストーンサークル

  4 余市町八幡神社山遺跡

  5 ニセコ町北栄遺跡

  6 ニセコ町滝台遺跡

  7 函館市日吉町遺跡

  8 南茅部町臼尻遺跡

  9 深川市音江環状列石

10        旭川市神居古潭ストーンサークル

1988による)

  これら「列石墓」に共通する特徴としては、次の三つが挙げられる。

  一つは、山頂・山麓に位置することである。神居古潭及び音江例では、実に比高差100m以上を計り、他の各地でも、比高差はそれぞれであるがいずれも山頂・山麓に位置している。

  このことは、墓域を集落と隔絶すると同時に、高所に設置することを強く意識していたことを示すものである。 墓域と集落の隔絶は、全国的にみても縄文時代前期以降しばしば認められるところであるが、基本的には同一台地上で展開されたもので、極端に立地を違えるのは、これら「列石墓」以外その例は知らない。

  又一つの特徴は、副葬品の定式化が認められることである。「列石墓」からは、翡翠玉・漆製品が高い頻度で検出されるが、それ以前の墓祉からは、こうした、「威信財」は勿論のこと副葬品自体出土することが希である。

  副葬品の定式化はこの時期を初現とするが、構成内容及び量を変えつつそれ以降の墓制に引き継がれていく点で重要である。

  最後の特徴として、墓域の立石による区画が上げられる。西崎山例では、「列石墓」が長径17m、短径11mの不整な長楕円の平面を呈して群集し、立石がその平面外縁に幾つか認められる。この立石は、その状況から当初は全周していたと推定され、墓抗上配石と別の機能、即ち墓域区画機能を持つ配石施設の存したことが知られるのである。他にも、複数の「列石墓」を区画する列石をもつものに、忍路例がある。

  環状列石墓の社会

 「環状列石」から「環状土?」へ

 「列石墓」に認められた墓域の区画は、それに続いて成立する後期後葉の巨大な竪穴を作出して墓域とする環状土?に引き継がれる。その意味では、「列石墓」と環状土?は、「区画墓」として総称することが出来るかも知れない。しかし、この墓域の区画は、「列石墓」と環状土?では、質的に異なるものである。

 「列石墓」における墓域区画の列石は、西崎山例にしろ忍路例にしろ、異なる円が少なくとも2, 3個切り会い、全体として長楕円の平面を形成していると考えられる。

  祭祀施設として短期的に構築されたであろうオクシベツ遺跡の環状列石の整った形状と比較した場合、その違いは明らかである。立石が改変を受けることがなければ、1基の埋葬が残された地鎮山例のごとくより整った平面形を示すに違いない。このことは、「列石墓」における墓域区画の立石が一度に形成されたのではなく、埋葬の追加と共に、幾度かの墓域の拡張が行われた可能性を示すものである。

 これに対して、環状土?では、竪穴の作出によって墓域が形成されるが、この竪穴の壁を掘り崩して墓域を拡大すること、更に竪穴外に無制限に墓域を拡大することはないようであり、墓域の拡大は、新たな竪穴の作出によって行われていると考えられる。

 従って、墓域を区画するという事実自体は共通するものの、環状土?では当初に設定された墓域の拡大は許されず、不動のものとして確定するのに対し「列石墓」では墓域の限定は可也緩やかであり、埋葬の追加につれ拡大するという、両者の区画の質的な違いが推察されるのである。

新空港用地内に所在する美々4遺跡は、竪穴中央に掘り残した円形の台状部をもち、ここに成人男性を埋葬した長大な墓抗が掘り込まれている。この被葬者が、当該環状土?を営んだ集団の首長と考えられる。当初から環状土?中央に1基の埋葬主体(首長埋葬)を設けることを意図して構築されたものであり、逆に、当該環状土?内には一人の首長しか許さないものであった、ということができる。

1基の環状土?に一人の首長埋葬しか許さなかったということは、新たな首長の死に際して、新たな環状土?を用意する必要があったことを意味する。即ち、環状土?の築造の契機は、首長の死であった、ということが出来るのである。

環状土?における首長の死を契機とする新たな墓域の設定は、墓域を拡大していく「列石墓」には想定することができない(神居古潭ストーンサークルはこの可能性をもつ)。

即ち、環状土?において首長交代による新たな墓域の築造が制度化されたこと、このことが「列石墓」で見られた墓域の拡張を許さなくなった理由であり、両者の墓域区画の質的な差を説明するものである、と考える。

「列石墓」の立地の特質

墓地は、それを営む人々にとっては、単なる埋葬の場としてではなく、敬愛及び畏怖の念を伴う祖霊の表象された場として認識される。

このような墓地が「列石墓」段階に山頂や山麓といった見晴らしのきく、恐らく集落を含めた集団の生産の場を望む地に設営されたことにより、集団領域の祖先からの継承という占取の正当性、祖霊(血縁性)を軸とした集団秩序を、埋葬及びその祭式を通じて成員が了解し合うこととなったであろう。逆に、集団成員がそのように了解し合う社会的な必要から、墓地が高所に移されたのだ、ということが出来るかもしれない。

環状土?では、このような高所の立地は姿を消し、比較的集落に近い場に墓域が設定される。このことは、「列石墓」に付加されたであろうイデオロギー的な機能が変質したというより、千歳市キウス環状土?群における墓道の存在、環状土?内からしばしば検出される飲食物供献用と思われる土器群から、むしろ墓地が生活空間に組み込まれるなかで、祖霊祭式が頻繁に行われるようになったこと、つまり、墓地が祖霊祭式の場として日常性を獲得していったことを示すものであり、「列石墓」に付加されたイデオロギー的機能、即ち集団領域の占取の正当性と集団秩序の規制強化の意義が、更に強く必要とされていることを示すものである。

副葬品の定式化の意義

「列石墓」から検出される翡翠玉、漆製品といった「威信財」は、集団内の特定の役割や地位を表象するものである。

又、神居古潭ストーンサークルの調査結果でも明らかなように、墓抗上の配石にも幾つかの類型があり、これらが出自・地位・性・年齢など社会的地位・秩序に結びついたものであることは間違いないところであろう。

従って、「列石墓」は、副葬品及び墓抗上配石を通じて現実の集団の秩序を反映・体現するものと言える。

おわりに

環状土?は、「列石墓」の発展形態である、といわれることがある。確かに両者は系譜的に無縁なものではなく、先行して「列石墓」があり、それ故環状土?が成立したことは間違いない。又、墓域を区画するという視点で見た場合、両者は区画墓として一つの時代を画するものである。

しかし、現象的にみれば、両者をつなぐものは極めて少ないのであって、「列石墓」の何を環状土?はどのように受け継いだのか、そしてそれはどのような理由によものなのかを明らかにしない限り、両者の共通し、或いは異なる特質を明らかにすることはできない。

(旭川市教育委員会)